極東国際軍事裁判(東京裁判)の欺瞞性についての法的検証

1     はじめに
  1945
814日に日本は日本の降伏条件を規定する布告(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender) (いわゆるポツダム宣言)を受諾して降伏し、米国に軍事占領された。そして、極東国際軍事裁判は、1946429日(昭和天皇誕生日)に検事から28名の被告に起訴状が送達され53日に開廷された。2年の審理期間を経た後休廷となり、判決書作成のための半年の準備期間を経て、19481112(判決書朗読開始114)に判決が言い渡された。公判中に死亡した2名と精神異常と診断されて訴追が取り消された1名を除く25名全員が有罪となった。そのうち7名が絞首刑を言い渡され、19481223日(今上天皇誕生日)に死刑が執行された。
 特に絞首刑に処せられた7名と、終身禁固刑と有期禁固刑に処せられた18名を含む25名がいわゆるA級戦争犯罪人として後世、何かと注目された。裁判の名において一人間の生命と長年の自由を奪ったのであるから、裁判は国際法に則って適法に実施されたことが絶対条件である。
 
しかしながら、結論は、極東国際軍事裁判は根拠となる罪刑を規定した国際法がないにもかかわらず、法に基づかずに裁いたもので、戦勝国の敗戦国に対する裁判の名を借りた「勝者の裁き」、「司法殺人」、「リンチ(私的制裁)」に過ぎなかった。すなわち、25名の有罪判決を受けたいわゆるA級戦争犯罪人は冤罪であったということである。
 
ここでは、裁判の適法性についてのみ検証し、判決理由の誤謬性については、別途検証する。

2     被告
  
起訴状による被告は以下の28名である。極東国際軍事裁判は192811日から194592日までの期間の日本の行為を一方的に裁いているが、本章における主な経歴の「戦前」、「開戦時」、「戦中」、「戦後」は1941128日から始まる日米戦争に対して用いている。

2.1    軍人 (18)

2.1.1  陸軍(15)
 荒木貞夫(戦前陸相、戦前退役)、板垣征四郎(戦前陸相、戦前関東軍参謀長)、梅津美治郎(戦中陸軍参謀長、戦前関東軍司令官)、大島浩(退役後開戦時駐ドイツ大使)、木村兵太郎(戦中ビルマ方面軍司令官、戦前関東軍司令官)、小磯国昭(退役後戦中首相(1944722-194547))、佐藤賢了(戦中軍務局長)、鈴木貞一(退役後開戦時企画院総裁)、土肥原賢二(戦前特務機関長)、東條英機(開戦時首相(19411018-1944722))、橋本欣五郎(戦前特務機関長、退役後開戦時国会議員)、畑俊六(戦前陸相、戦前支那派遣軍総司令官)、松井石根(戦前退役後中支那方面軍司令官)、南次郎(戦前陸相、戦前関東軍司令官)、武藤章(戦中軍務局長)

2.1.2  海軍(3)
 岡敬純(戦中軍務局長)、嶋田繁太郎(開戦時海相)、永野修身(戦前海相、戦中軍令部総長)

2.2    非軍人(役人、外交官、政府、政治家、民間人)(10)

2.2.1  役人、外交官、政府、政治家(9)
 賀屋興宣(開戦時蔵相、戦後法相)、木戸幸一(開戦時内大臣、戦前文相)、重光葵(戦中外相、戦後外相)、白鳥敏夫(開戦時駐イタリア大使)、東郷茂徳(開戦時外相、戦中外相)、平沼騏一郎(戦前首相(193915-1939830))、広田弘毅(戦前首相(193639-193722)、戦前外相)、星野直樹(開戦時内閣書記官長)、松岡洋右(戦前外相)

2.2.2  民間人(1)
 大川周明(戦前大学教授)

 

3     判事の構成

3.1    判事の選任国
 判事は、最初は、それぞれ、アメリカ、イギリス、オランダ、フランス、ソ連、中華民国国民政府、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの降伏文書に署名した連合国(戦勝国)各国から各1名任命された計9名であった。戦勝国ではなく中立国から判事が任命されなかった理由は、この裁判は戦争の延長であり、勝利に貢献しなかった中立国は裁判に参加することの政治的及び道義的資格がそもそもないということであった。後に、連合国(戦勝国)でもなく独立国でもないインド(イギリス領植民地)とフィリピン(アメリカ領植民地)からもそれぞれ1名が追加選任されている。この理由は、戦勝国9カ国の内8カ国は白人国家で欧米諸国でありアジアでは中華民国国民政府だけであるので、アジア諸国に裁判が差別的であると見做されるのを防止するためであった。また、インドが判事の選出を要望したのは、イギリスからの独立を見据えて戦勝国としての名誉ある地位を占めたいとの思惑があったためである。結局、判事は合計で11名である。
 検事も、判事を選任した各国から選任されている。
 すなわち、起訴した国が判事を任命しており、裁判の公正、公平性が全く担保されていない。

3.2    裁判長
 裁判長ウェッブはオーストラリアから選任された。ウェッブはオーストラリアでの日本軍の戦争法規違反を調査した検事である。すなわち、東京裁判で裁く事件に検事として関与している。正当な裁判であれば、判事の忌避理由に当たる。

3.3    他の判事
 アメリカが最初に選任した判事ヒギンズは東京裁判の合法性を疑って開廷初期に辞任した。次にアメリカが任命し判事の職責を最後まで果たしたアメリカの判事クレイマーは、真珠湾攻撃の責任に関する法書簡を大統領に提出し、戦争を遂行した責任ある軍人である。すなわち、クレイマーは前審に関与していた。中華民国国民政府の判事梅は国民政府議会の外交委員会委員であり法曹の経験はなく、日本との外交に関与していた。ソ連の判事ザリャノフは軍人であり日ソ戦争に関与していた。ザリャノフとフランスの判事ベルナールは法廷の公用語である英語又は日本語を全く理解できなかった。フィリピンの判事ハラニーリャは米軍について日本と戦い米兵と共に日本軍の捕虜となりバターン半島における行進を経験し、戦争の全期間を通じて日本軍の捕虜であった。したがって、ウェッブ裁判長を含めて5名の判事は東京裁判の訴因に当事者又は検事として関与している。これらの事実は公正な裁判としては全く考えられないことであり、これらの事実は判事の忌避理由に当たる。判事忌避の申し立ては全て却下されている。
 
インドの判事パール、オランダの判事レーリンク、カナダの判事マクドゥガル、ニュージーランドの判事ノースクロフト及びイギリスの判事パトリックは自国での判事であり、フランスの判事ベルナールは自国の軍事法廷の検事である。これらの判事は法曹の経験があるものの国際法に精通した判事はインドのパール判事だけであった。

4     判決

4.1    判決書
 イギリスの判事パトリックが裁判所条例の事後法を疑う裁判長ウェッブの判決起案を徹底的に批判するなどウェッブと対立し、パール判事やレーリンク判事が反対意見を書くことが想定され、判事間の意見の対立も激しくニュージーランド判事とカナダ判事は本国に辞任を願うなど、合議体は崩壊寸前の状態であった。結局は、判決はパトリックらの英連邦(イギリス、ニュージーランド、カナダ)を中心とし、アメリカ、フィリピン、中華民国国民政府、ソ連の判事を加えた7名から成る多数派起草委員会(委員長はアメリカ判事クレイマー)により起案された。判決原案は判事ではない者が起訴状や検事最終論告などを参照して作成されたとも言われている。多数派内部でも判決書草案につき対立があった。事後法「侵略戦争の共同謀議」の正当性を疑うベルナール(フランス)、レーリンク(オランダ)、パール(インド)、裁判長ウェッブの4名の判事は少数派判事となり、判決書起案から排除された。これら4名は多数判決に反対する反対判決を記載している。結局、判決書草案が11名全判事の合議に掛けられることはなかった。
   

4.2    絞首刑(7)

4.2.1  軍人(6)
 板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東條英機、松井石根、武藤章
絞首刑に賛成した判事は7名、反対した判事は4名である。

4.2.2  非軍人(1)
 広田弘毅
絞首刑に賛成した判事は6名、反対した判事は5名であり、僅少差により外交官で外相や首相を務めた広田は絞首刑に処せられている。

4.3    終身禁固刑(16)

4.3.1  軍人(11)
 荒木貞夫、梅津美治郎、大島浩、岡敬純、小磯国昭、佐藤賢了、嶋田繁太郎、鈴木貞一、橋本欣五郎、畑俊六、南次郎
小磯国昭と梅津美治郎は、判決後服役中に死亡した。

4.3.2  非軍人(5)
 賀屋興宣、木戸幸一、白鳥敏夫、平沼騏一郎、星野直樹
白鳥敏夫と平沼騏一郎は判決後服役中に死亡した。

4.4    有期禁固刑(2)

4.4.1  非軍人(2)
 20 東郷茂徳
 7  重光葵
東郷茂徳は判決後服役中に死亡した。

4.5    判決前死亡(2)

4.5.1  軍人
 永野修身

4.5.2  非軍人
 松岡洋右

4.6    起訴後訴追取消(1)

4.6.1  非軍人
 大川周明

5     A級戦争犯罪人のA級とは何か
 絞首刑に処せられた東條英機らはいわゆるA級戦争犯罪人と言われている。1946119日にマッカーサーにより公布された極東国際軍事裁判所条例(Charter of the International Military Tribunal for the Far East)には、第5条に(a)項として「平和に対する罪」、(b)項として「通例の戦争犯罪」(すなわち戦争法規違反)(c)項として「人道に対する罪」が挙げられているが、A級犯罪の用語は存在しない。横浜で設置されたアメリカの戦争犯罪法廷や連合国各国での連合国戦争犯罪法廷では「通例の戦争犯罪」すなわち戦争法規違反について裁判されており「平和に対する罪」では裁判されていない。「平和に対する罪」で裁判したのは、極東国際軍事裁判だけである。「平和に対する罪」で有罪判決を受けた者は、正確には極東国際軍事裁判所条例第5(a)項違反の犯罪人と言うべきである。もっとも「平和に対する罪」が無罪であっても、死刑が執行された者がいる。よって、いわゆるA級戦争犯罪人は特異な「平和に対する罪」を訴因とした極東国際軍事裁判において裁かれて有罪判決を受けた者の意味に使用されているが、A級戦争犯罪は正確な表現ではない。
 また戦争法規違反の罪に問われたアメリカによる横浜と連合国各国での戦争犯罪法廷により有罪判決を受けた者は、一般的には、いわゆるBC級戦争犯罪人と言われている。戦争犯罪法規違反は極東国際軍事裁判所条例第5条の(b)項に規定されている。起訴状によると条例第5(b)項の「通例の戦争犯罪」と(c)項の「人道に対する罪」とをまとめて第3類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」として訴因535455が類型化されている。このことからいわゆるBC級戦争犯罪は、条例第5条の(b)(c)の符号から派生したものである。また、これらの訴因は起訴状では第3類に類型化されていることから、条例第5条の(b)項、(c)項の意味がなくなり、B級戦争犯罪人は戦争法規違反の指令者、C級戦争犯罪人は執行者の意味であると俗には言われる場合もあるが裁判では区別されていない。
 A級戦争犯罪、B級戦争犯罪、C級戦争犯罪の用語は判決や起訴状はもとより刑の執行を規定したサンフランシスコ講和条約第11条においてさえも規定されていない。
 A級、B級、C級の表現は犯罪の等級を表しているように誤解を与え、A級戦争犯罪人が最も罪が重いとの印象を与える。しかし、ABCは条例第5条の(a)(b)(c)から派生したもので、犯罪のcategory、類型を表しているに過ぎない。したがって、通称としては、A級戦争犯罪人を、category a戦争犯罪人とかa類型戦争犯罪人と呼ぶ方が本来の意味を正確に表している。しかし、極東国際軍事裁判で死刑に処せられた者の中には、category a戦争犯罪人ではない者が含まれている。したがって、現在世間で称呼されているいわゆるA級戦争犯罪人は、極東国際裁判受刑者又は東京裁判受刑者と言い改めるべきである。また、いわゆるBC級戦争犯罪人は一般戦争法規違反受刑者と言い改めるべきである。

6     極東国際軍事裁判所条例(Charter of the International Military Tribunal for the Far East)
  1945
88日にイギリス、フランス、アメリカ、ソ連の四ヵ国は、ドイツ・ナチスの戦争犯罪を裁くために国際軍事裁判所憲章を制定した。東京裁判の根拠となる極東国際軍事裁判所条例は、国際軍事裁判所憲章に沿ってGHQ国際検察局IPSにより起案され、GHQ/SCAPマッカーサーにより1946119に布告された。極東国際軍事裁判は、ナチスを裁いたニュールンベルク裁判の影響を多分に受けている。条例に規定された罪名は以下の通りである。

第五条(人及び犯罪に関する管轄) (Jurisdiction over persons and offenses)
 本裁判所は、平和に対する罪を包含する犯罪に付き個人として又は団体構成員として訴追せられた極東戦争犯罪人を審理し、処罰する権限を有する。以下に掲げる一又は数個の行為は、個人責任あるものとし、本裁判所の管轄に属する犯罪とする。
a)平和に対する罪(Crimes against Peace)
  即ち、宣戦を布告し若しくは布告しない進攻戦争(a war of aggression)、国際法、条約、協定(agreements)若しくは保証(assurance)に違反した戦争の計画、準備、開始(initiation)若しくは遂行(waging)又は何れかの上記行為を達成する為の共通の計画(common plan)若しくは共同謀議(conspiracy)への参加。
b)通例の戦争犯罪(Conventional War Crimes)
  即ち、戦争法規又は戦争慣例(customs of war)の違反。
c)人道に対する罪(Crimes against Humanity)
 
 即ち、戦前若しくは戦時中に犯行に及んだ(committed)殺人(murder)、殲滅(extermination)、隷属(enslavement)、国外追放(deportation)その他の非人道的行為(inhumane acts)又は犯行地の国内法違反の成否にかかわらず、本裁判所管轄権(jurisdiction)に属する任意の犯罪の実行による若しくは犯罪に関連した政治的若しくは人種的理由(racial grounds)による迫害(persecution)。上記何れかの犯罪を実行するための共通の計画又は共同謀議の立案(formulation)又は実行に参加した指導者、組織者(organizers)、煽動者(instigators)及び共犯者(accomplices)は、かかる計画の遂行として如何なる者により(by any person)成された一切の行為に対し責任を有する。

 aggressionの意味は、Webster’s Dictionary によると、unprovoked attack、すなわち、挑発されもしないのに攻撃することである。war of aggressiondefensive war 防衛(自衛)戦争の反対語である。aggressionには他国の領土に正当理由又は法的根拠もなく侵入し、領土を略取し財物を略奪するという侵略の意味は存在しない。佐藤和男. (1985). 憲法九条・侵略戦争・東京裁判に詳しい。日本では一般的に「侵略戦争」の語が用いられているが、war of aggressionaggressive warの訳に近い進攻戦争、侵攻戦争の語を用いるべきである。

 
人道に対する罪は通常の戦争法規違反では裁けない自国民・無国籍者の一般住民に対する集団的虐殺行為に対する罪であって、ドイツ・ナチスのユダヤ系ドイツ人に対するホロコーストを裁くために設けた罪である。外国人に対する虐殺は条例第5(b)項の通例の戦争犯罪である。日本の場合には「人道に対する罪」に相当する行為はなく、(c)項は不要であった。(c)項の人道に対する罪が条例第5条に規定されたのは、連合国が日本をドイツの戦争犯罪と同列に裁き、極東国際軍事裁判を先行するドイツを裁くニュールンベルグ裁判の後追いにさせたかったからである。

7     起訴状における訴因
 下記太字は判決において有罪判決を受けた訴因である。

7.1    1 平和に対する罪
 訴因第1〜第36
 国際法、条約、協定及び誓約を侵犯して、宣戦布告し又は宣戦布告しない進攻戦争(war of aggression)を遂行することにより、一定地域の軍事的、政治的、経済的支配を確保しようとする共同謀議。
  
 
平たく言えば「平和に対する罪」は、192811日から194592日までの日本の一連の行為を、日本書紀にある「八紘一宇」の思想や1928年の田中上奏文(法廷において偽書であることが判明)1934年の天羽声明や1937年の広田内閣決定の「国策の基準」を誤解又は曲解して、世界征服(少なくも東南アジア征服)を共同謀議して計画し実行したといういわゆる「侵略戦争の共同謀議の罪」である。

侵略戦争計画・遂行の共同謀議
  
訴因1〜訴因17の対象期間は192811日〜194592日である。
  
下記訴因1が軍事・政治・経済的支配による世界征服を目的とした侵略戦争の計画・遂行の包括的共同謀議である。
  
 訴因1 東アジア・太平洋・インド洋内及びこれに隣接する全ての国家及び島嶼(以下「アジア等」という)に対する軍事・政治・経済的支配(訴因25において「軍事等支配」という)を目的とする戦争計画・遂行に関する共同謀議(訴因25において「戦争計画等共同謀議」という)
 訴因2 満洲における軍事等支配を目的とする戦争計画等共同謀議
 訴因3 中国における軍事等支配を目的とする戦争計画等共同謀議
 訴因4 アジア等の軍事等支配を目的として米英蘭等に対する戦争計画等共同謀議
 訴因5 日独伊と共同しアジア等の軍事等支配を目的として米英蘭等に対する戦争計画等共同謀議

交戦国毎の戦争の計画準備
 訴因6 中華民国に対する戦争の計画準備
 訴因7 アメリカに対する戦争の計画準備
 訴因8 イギリスに対する戦争の計画準備
 訴因9 オーストラリアに対する戦争の計画準備
 訴因10 ニュージーランドに対する戦争の計画準備
 訴因11 カナダに対する戦争の計画準備
 訴因12 インドに対する戦争の計画準備
 訴因13 フィリピンに対する戦争の計画準備
 訴因14 オランダに対する戦争の計画準備
 訴因15 フランスに対する戦争の計画準備
 訴因16 タイに対する戦争の計画準備
 訴因17 ソビエトに対する戦争の計画準備 

各交戦国に対する戦争の開始
 訴因18 中華民国に対する満洲事変開始
 訴因19 中華民国に対する支那事変開始
 訴因20 アメリカに対する大東亜戦争開始
 訴因21 フィリピンに対する大東亜戦争開始
 訴因22 イギリスに対する大東亜戦争開始
 訴因23 北部フランス領インドシナ進駐による対フランス戦争開始
 訴因24 タイに対する大東亜戦争開始
 訴因25 ソビエトに対する張鼓峰事件開始
 訴因26 ノモハン事件開始

各交戦国に対する戦争の遂行
 訴因27 満洲事変以後の対中華民国戦争遂行
 訴因28 支那事変以後の対中華民国戦争遂行
 訴因29 アメリカに対する大東亜戦争遂行
 訴因30 フィリピンに対する大東亜戦争遂行
 訴因31 イギリスに対する大東亜戦争遂行
 訴因32 オランダに対する大東亜戦争遂行
 訴因33 北部フランス領インドシナ進駐以後におけるフランス戦争開始
 訴因34 タイに対する大東亜戦争遂行
 訴因35 ソビエトに対する張鼓峰事件の遂行
 訴因36 ソビエト及び蒙古に対するノモハン事件の遂行

 訴因第15は戦争遂行に関する包括的共同謀議である。訴因第6〜第17は交戦国毎の戦争の計画準備であり、それぞれ、中華民国、アメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、インド、フィリピン、オランダ、フランス、タイ、ソビエトに対する戦争の計画準備である。
 訴因第18〜第26は各交戦国に対する戦争の開始である。
 訴因第27〜第36は、それらの戦争遂行及びオランダに対する大東亜戦争遂行である。

7.2    2 殺人
  
訴因第37〜第52
開戦前の殺人指令・許可及び殺人の共同謀議の罪
 訴因37 194061日〜1941128日の間におけるアメリカ・イギリス・フィリピン・オランダ・タイに対する宣戦を布告せずして行う殺人指令・許可及び殺人の共同謀
 訴因38 平和的解決手段によらないなど条約・協定に違反した訴因37の行為
 訴因39 真珠湾不法攻撃によるアメリカ軍隊及び一般人殺害
 訴因40 コタバル不法攻撃によるイギリス軍隊の殺害
 訴因41 香港不法攻撃によるイギリス軍隊の殺害
 訴因42 ペトレル号不法攻撃によるイギリス軍人3名の殺害
 訴因43 フィリピン不法攻撃によるアメリカ及びフィリピン軍隊及び一般人殺害
 
俘虜及び一般人の殺害
 訴因44 1931918日〜194582日の間における俘虜、一般人従務乗組員虐殺の計画共同謀議
 訴因45 19371212日以後の南京攻撃による中華民国の一般人及び非武装兵員の殺害
 訴因46 19381021日以後の広東攻撃による中華民国の一般人及び非武装兵員の殺害
 訴因47 19381027日前後の漢口攻撃による中華民国の一般人及び非武装兵員の殺害
 訴因48 1944618日前後の長沙攻撃による中華民国の一般人及び非武装兵員の殺害
 訴因49 194488日前後の衡陽攻撃による中華民国の一般人及び非武装兵員の殺害
 訴因50 19441110日前後の桂林・柳州攻撃による中華民国の一般人及び非武装兵員の殺害
 訴因51 1939年夏のノモハン攻撃による蒙古及びソビエト軍隊の殺害
 訴因52 19397月及び8月の張鼓峰攻撃によるソビエト人民の不法殺害
 
 
2類の殺人は極東国際軍事裁判所条例の罪名を規定した第5条には存在しない。マッカーサーは国際軍事裁判も、事後法の「平和に対する罪」で裁くこと、すなわち戦争の犯罪化にも反対であり、アメリカ単独法廷により東條内閣閣僚を「殺人罪」で裁くことを主張していた。しかし、それが通らなかったために検事に「殺人」を追加させた。マッカーサーのフィリピンでの敗北に対する復讐のためであった。

7.3    3 通例の戦争犯罪及び人道に対する罪
  
訴因第53〜第55
  
訴因53 アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・フィリピン・ポルトガル・ソビエトについては1941127日〜194592日までの大東亜戦争における、中華民国に対しては1931918日の満洲事変以後における戦争法規慣例違反の計画立案実行の共同謀議
 訴因54 訴因53の期間及び国における俘虜及び一般人に対する戦争法規違反行為の遂行命令・援護・許可をしたことによる戦争法規違反
 訴因55 訴因53の期間及び国における俘虜及び一般人に対する戦争法規の遵守と違反防止に対する不作為による戦争法規違反

 
訴因5355は通例の戦争犯罪である。人道に対する罪の訴因は存在しない。

8     判決における罪名

8.1    平和に対する罪、即ち、進攻戦争(a war of aggression)に対する共同謀議の罪だけで死刑を宣告された被告はいない。
 
平和に対する罪で有罪判決を宣告された者は被告25名中、24名である。死刑を宣告された被告7名のうち6名は、平和に対する罪と通例の戦争犯罪(違反行為の遂行命令と許可又は未然防止に対する不作為)とにより死刑を宣告されている。平和に対する罪の具体的訴因は、訴因1272931-333536、すなわち、共同謀議と連合国に対する戦争遂行である。訴因28の支那事変以後の対中華民国戦争遂行については有罪判決を受けていない。

8.2    人道に対する罪は明確な訴因ではなく判決していない。すなわち全被告無罪である。

8.3    訴因3752の殺人の罪については、通例の戦争犯罪の訴因で裁いている。すなわち有罪の判決をしていない。

8.4    死刑を宣告された者のうちの1名、松井岩根は平和に対する罪は無罪であり、通例の戦争犯罪、しかも未然防止に対する不作為の罪のみにより死刑が宣告されている。
 
松井岩根は進攻戦争(a war of aggression)の共同謀議については無罪であるが、通例の戦争犯罪の未然防止に対する不作為だけで死刑を宣告されている。
  
判事の間でも「平和に対する罪」、いわゆる「侵略戦争の罪」は事後法であり裁判では裁けないと考えている者が少なからずいたため、これだけで死刑にすると後に「勝者の裁き」との批判を受けることから、死刑判決を受けた6名は通例の戦争犯罪との抱き合わせで死刑判決を受けている。また、誰を死刑にするかは確固たる基準はなく、各国との戦争に関与した代表者を対象とするなど、各国判事の思惑によるところが大きい。

8.5    通例の戦争犯罪
  
訴因53の戦争法規違反の計画立案実行の共同謀議の罪は全員無罪である。すなわち、指導者が計画的に残虐行為を謀議し指令し許可した事実はないということである。この点はドイツ・ナチスを裁いたニュールンベルグ判決とは異なる。
 訴因54は戦争法規違反を命令又は許可した罪である。
この訴因54で有罪判決を受けた者は土肥原、板垣、木村、武藤、東條の5名である。いずれも死刑が宣告されている。
 訴因55は戦争法規違反行為の未然防止に対する不作為の罪である。この不作為を罪とすることに、アメリカは過去に徹底的に反対した(パリ講和会議)。
この訴因で有罪判決を受けた者は畑、広田、木村、小磯、松井、武藤、重光の7名である。このうち広田と松井だけが死刑を宣告されている。広田は19371213日の南京陥落時国内に居た外相であり外相としての不作為を咎められている。松井は南京陥落時の司令官であり、訴因55不作為一つの訴因だけで死刑になっている。刑法に問うには、当然に故意が必要であり、被告らが戦争法規違反であることを知りながら意図的に放任したという事実はない。
  
訴因5455で有罪と認定されて死刑にならなかった者は畑、小磯、重光の3名だけである。
 判決は訴因5455について、25名の被告のうち上記の10名に有罪を宣告した。残りの被告15名は通例の戦争犯罪は無罪である。

8.6    パール判決書
  パール判決書によるとパール判事は次のように判示している。戦争法規違反(民間人や捕虜に対する残虐行為)を組織として指令し許可した証拠はなくその事実は立証されていない。この点、ナチスは組織としてユダヤ人のホロコーストを指令する文書が存在する。また、外相や司令官の未然防止の不作為が残虐行為の原因であったとする証拠も存在しないし、不作為責任も立証されていない。また、不作為を刑事罰に問うことはできないし、不作為を刑法の対象とするとの国際法は存在しない。
  
パール判事は「平和に対する罪」は事後法であり犯罪ではない、パリ不戦条約も進攻戦争(a war of aggression)を犯罪とはしていないし、国家の行為に対して個人を犯罪として裁く国際法は存在しない、との純然たる法的見地により全員無罪とし、「通例の戦争犯罪」については上記したように指令し許可したこと又は未然防止につき不作為であった事実は立証されていないという事実認定の見地及び不作為を刑法上の罪とする国際法は存在しないとする法的見地から全員無罪の判決を書いた。

 

9     平和に対する罪と人道に対する罪は事後法

9.1    極東国際軍事裁判所条例は事後法(ex post facto law)である
 極東国際軍事裁判は、192811日以後194592(降伏文書調印日)までの一連の日本の行為を犯罪の対象としている。裁判所条例において処罰すべき犯罪を新たに規定している。人が人を裁く刑法においては、法は不遡及である。行為の後に制定された法で、人を裁くことはできない。すなわち、裁く対象とする行為が行われた時に、罪と罰を規定した刑法が存在している必要がある。これは、刑法の大原則である。
 したがって、裁判所条例に規定された犯罪行為が成された時に、規定された犯罪行為を成した者を処罰することが、各国が共通に受容した国際法において既に規定されていた場合においてのみ、極東国際軍事裁判所条例に規定する行為に対して処罰できる。

9.2    1928年の不戦条約(ケロッグ-ブリアン条約)
 
人道に対する罪は全員無罪であるので、平和に対する罪について述べる。
平和に対する罪の根拠はパリ不戦条約と言われている。
  
第1条
 締約国は、国際紛争解決のため、戦争に訴えないこととし、かつ、その相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において厳粛に宣言する。
  
第2条
 締約国は、相互間に起こる一切の紛争又は紛議は、その性質又は起因がどのようなものであっても、平和的手段以外にその処理又は解決を求めないことを約束する。

9.3    不戦条約の法的性格

9.3.1  戦争は犯罪でも違法でもない
 不戦条約が発効する前は、国家間の兵士同士の戦争は犯罪でも違法でもなかった。民間人への武力攻撃の禁止、捕虜虐待の禁止、捕虜として保護される兵士たる条件(便衣兵となることの禁止、軍服の着用義務、司令官を存在させる義務など)などの戦争のやり方を規定したハーグ陸戦法規条約が存在するぐらいであったので、戦争を起こすこと自体は犯罪でも違法でもなかった。すなわち、決闘の法理により、主権国家間の合法的戦争により国際紛争を解決することは違法でもなく増して犯罪でもなかった。

9.3.2  不戦条約は罪刑規定ではない
 不戦条約第1条は罪刑を規定していない。第1条の戦争の放棄は、国家間の政策を規定したもので励行規定に過ぎない。不戦条約が刑法条約と言うには、犯罪の構成要件、責任主体要件、刑罰が規定されている必要がある(罪刑法定主義)

9.3.3  不戦条約は国家の行為に対してその代理人たる指導者を裁くことを規定していない。
  国家の適法な手続きにより行われた意思決定により国家が行った行為に対して、その代理人である個人を犯罪者として処罰することはできない。不戦条約にはそのような規定は存在しない。また、当時、国家の行為を個人の犯罪として裁けることを規定した国際法は全く存在していない。

9.3.4  不戦条約は自衛戦争を戦争放棄から除外している
  
不戦条約は自衛戦争(defensive war)を戦争の放棄から除外している。進攻戦争(war of aggression)か自衛戦争(defensive war)かの判断は戦争を行う国の専権判断事項である。すなわち、自衛戦争か否かは戦争を行う自国が判断できる。自国の戦争を自衛戦争とその国が判断すれば、不戦条約の対象ではない。自衛の範囲は自国の領土に限らない。条約締結当時、アメリカはモンロー主義により南米がその範囲とし、イギリスは植民地支配国もその範囲とし、日本は満蒙地域における死活的権益を守る行動を含むとしている。
 何が進攻戦争(war of aggression)で何が自衛戦争(defensive war)であるか不戦条約にも国際法にも全く規定がない。このことからも不戦条約は刑法規定には成り得ない。
 経済封鎖は先制攻撃(war of aggression)である。先制攻撃である経済封鎖に対抗する戦争は自衛戦争(defensive war)である。第一国の戦争相手国に第三国が支援する行為は、第一国に対する進攻戦争(war of aggression)である。ある国の合法的権益に対する不当な侵害を排除するための戦争は自衛戦争(defensive war)である。

10   判決後

10.1  死刑の執行
 東京国際軍事裁判は1審だけで終結し、死刑判決を受けた7名は19481223日に絞首刑が執行された。

10.2  終身及び有期禁固刑受刑者の刑執行と釈放
 対象者18名のうち梅津、白鳥、東郷、小磯、平沼の5名は服役中に死亡した。南、畑、岡、島田、荒木の5名は服役中に医療仮釈放された。禁固刑7年の重光葵はGHQの仮釈放制度により19501121日に釈放されている。終身禁固刑に処せられた残りの橋本、加屋、鈴木、星野、大島、木戸、佐藤の7名がサンフランシスコ講和条約第11条に基づく赦免請求の対象となった。
 1952428日にサンフランシスコ講和条約が発効されると、日本政府は条約第11条の規定により全連合国に対して、服役中のいわゆるA級戦争犯罪人の赦免請求手続きをとり始めた。19538 月国会は全会一致で戦犯の刑死者を公務死と認定し遺族年金を支給することを決議し、政府が関係国に対して戦犯拘禁者の全面赦免の許可を求めることもほぼ全会一致で決議した。
 この決議に際して、改進党の議員は「東京裁判が法原則を無視した勝者による敗者の裁きであり文明の汚辱であったとし、処刑された戦犯を公務死として扱い遺族年金を支給すべき」との趣旨の国会本会議演説をしている。社会党の議員でさえ「原爆投下という残虐な行為を裁かず敗者のみを裁く不法な裁判で裁かれた戦犯の釈放を要求し、絞首刑になった戦犯が靖国神社に祀られないことを嘆き、遺族に対する遺族年金の支給を要求する」との趣旨の国会本会議演説を行っている。また、ABC級戦争犯罪人の赦免請求に4千万人の日本国民の署名が集まったとも言われている。
 極東国際軍事裁判当時においては「平和に対する罪」は事後法ではなく自然法として認められているとの見解を示していたイギリスの法曹の権威ハンキー卿ですら自著において、日本の赦免請求に関して「英米両国は一切の戦争犯罪者を赦免すべきである。かくして戦争裁判の失敗が永久に拭いさられるとき、ここに初めて平和に向かっての決定的な一歩となるであろう」との趣旨を記述している。
 A級戦争犯罪人のうち最も早く仮釈放された者は禁固刑7年の重光葵であり19501121日に仮釈放された。195597日に関係国は刑期10年を経過した者から仮釈放することを決定し、残りの終身禁固刑受刑者は、順次釈放された。最後の釈放者は1956331日の佐藤賢了である。
 絞首刑に処せられた7名も絞首刑に賛成する判事が反対者より一人多い又は過半の6名に対して一人多い少数さで死刑になっている。せめて終身禁固刑であれば釈放されて、犯罪者ではなく世間に受け入れられていたことは想像に難くない。

10.3  第二次A級国際裁判
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名のいわゆるA級戦争犯罪人が絞首刑に処せられた19481223日現在、A級戦争犯罪人候補者として拘禁されていた48名の処分が問題となった。「平和に対する罪」いわゆる侵略戦争の罪は、事後法であり国際裁判では裁けないとの考えが強く、連合国は追加の国際裁判に否定的であった。そのためアメリカ単独で通例の戦争犯罪のみで裁くしかなかった。マッカーサーは開戦時の東條内閣の閣員と鈴木内閣の閣員との8名を復讐のために通例の戦争犯罪で裁きたいとの希望を持っていたが、閣員は殆ど文民であるため通例の戦争犯罪で裁くことは不可能として諦めた。その結果、拘禁されていた全員は、東條らの処刑日の翌日19481224日に釈放された。

10.4  釈放されたいわゆるA級戦争犯罪人のその後
  
重光葵は衆議院議員となり外務大臣を務め、19561218日の国連総会において日本の加盟受諾演説で「日本は東西の架け橋になりうる」との名言を残した。賀屋興宣は衆議院議員となり法務大臣を努めている。星野直樹は経済人となり東急国際ホテル社長など民間会社の要職を歴任している。佐藤賢了は東急管財(東急ファシリティサービス)社長を努めている。鈴木貞一は産業計画会議の委員を務め自民党から参院選挙出馬を要請され、断っているが佐藤栄作らのブレインを努めている。橋本欣五郎は戦前衆議院議員であり、衆議院議員選挙に立候補して落選している。大島浩は自民党から国政選挙立候補を要請されたが断っている。荒木貞夫は講演や近現代史の調査を行っている。木戸幸一は隠居生活を送っている。
 これらの活躍や、数次に渡る国会での赦免請願決議や処刑者を公務死扱いとして遺族に恩給を支給する恩給法の改正、国民による大部の赦免嘆願書などを見ると、当時の日本人は受刑者を戦争犯罪人とする認識はなかった。むしろ戦後から年代が経過するに連れて、日本国民は特定マスコミと日教組による教育と特定政党と特定言論人や特定隣国による宣伝によりA級戦争犯罪人の意識が強くなった。

10.5  裁判後のマッカーサー発言
 19501015日トルーマン米大統領とマッカーサーはウエーク島で朝鮮戦争問題について会談した。会談に同席した大統領顧問ハリマンからの「北朝の戦犯はどうするのか」との問いにマッカーサーは次のように回答している。「戦犯には手をつけるな。手をつけてもうまくいかない。現地司令官に一任するべきだ。ニュールンベルグ裁判と東京裁判は、全く抑止力はなかった。残虐行為を行った者は、現地司令官の判断で対応する。私は、拘束したらすぐさま軍事委員会で裁くつもりだ。」と発言している。
 すなわちマッカーサーは、東京裁判は誤りであったとの趣旨の発言をしている(当時の新聞報道)。朝鮮戦争以後現在に至るまで多くの戦争があったが、「平和に対する罪」(いわゆる侵略戦争の罪)により国際裁判で裁かれた例はない。

 マッカーサーは195153日に開催されたアメリ上院の軍事外交合同委員会において次の証言を行っている。
 ヒッケンルーパー上院議員からの「赤色中国に関する海と空からの封鎖という貴官の提案は、太平洋において米国が日本に勝利を収めた際の戦略と同じではありませんか」との質問に対して、マッカーサーは次のように回答している。
 「太平洋では、米国は日本の立場を考慮せずに日本を封鎖しました。日本は四つの島に、八千万人もの膨大な人口が詰め込まれていたということを理解する必要があります。その約半分は農業人口であり、残りの半分は工業に従事していました。日本における労働力は、量と質の両者において私がかつて知り得た何ものにも増して優れたものであろう。いつの頃からか、彼らは労働の尊厳と称すべきものを発見しました。つまり、人間は何もしないでいるときよりも、働いて何かを作っているときの方が幸せだということを発見したのです。彼らがこのように膨大な労働能力を有していたことは、彼らが何か働くための対象を必要としていたことを意味した。彼らは工場を建設し労働をしたが、基本資源を保有していなかった。
 日本原産の動植物は、蚕を除いてはほとんどないも同然である。綿がない。羊毛がない、石油の産出がない、錫がない。ゴムがない。他にもないものばかりだった。その全てがアジアの海域に存在していた。もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万人から一千二百万人の失業者が日本で発生するであろうことを彼らは恐れた。したがって、彼らか戦争に駆り立てられた動機は、大部分が安全保障の必要性に迫られてのことであった。」とマッカーサーは証言した。すなわち、大東亜戦争は自存自衛のための戦争であったと証言した。
 さらに、ラッセル委員長の質問に答えて「太平洋においてアメリカが過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことであると私は考える」と、マッカーサーは回答している。フランクリン・ルーズベルト大統領の前の大統領フーバがルーズベルトを徹底して批判し、指摘したことと同一である(裏切られた自由)

10.6  パール判事の演説
 パール判事は1952116日の広島高裁主催の講演会に招聘され「子孫のため歴史を明確にせよ」と題して次の趣旨の講演を行った。
 1950年のイギリスの国際情報調査局の発表によると「東京裁判の判決は結論だけで理由も証拠もない」とある。他の判事は全部有罪と判定しわたくし一人が無罪と判定した。わたくしはその無罪の理由と証拠を微細に説明した。しかるに他の判事らは有罪の理由も証拠も何ら明確にしていない。おそらく明確にできないのではないか。これでは感情によって裁いたといわれても何ら抗弁できまい。
 要するに彼等(欧米)は、日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって自らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の過去18年間のすべてを罪悪であると烙印し罪の意識を日本人の心に植えつけることが目的であったに違いがない。東京裁判の全貌が明らかにされぬ以上、後世の史家はいずれが真なりや迷うであろう。歴史を明確にする時が来た。そのためには東京裁判の全貌が明らかにされなくてはならぬ。これが諸君の子孫に負うところの義務である。
 わたくしは1928年から1945年までの18年間(裁判の対象期間)の歴史を28カ月かけて調べた。各方面の貴重な資料を集めて研究した。この中にはおそらく日本人の知らなかった問題もある。それをわたくしは判決文の中に綴った。このわたくしの歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。そして自分らの子弟に『日本は国際犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』と教えている。満洲事変から大東亜戦争勃発にいたる事実の歴史を、どうかわたくしの判決文を通して充分研究していただきたい。日本の子弟が歪められた罪悪感を背負って卑屈・頽廃に流されてゆくのを、わたくしは見過ごして平然たるわけにはゆかない。彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。誤れた歴史は書きかえられねばならない。
 との趣旨の演説をパール判事は戦後日本において行っている。極東国際軍事裁判は、パール判事の認識が真実である。

11   結論
  
国家の戦争行為に対して国家の指導者を戦争犯罪で裁く国際法は存在しなかった。極東国際軍事裁判は、罪刑を規定した根拠法が存在せず、根拠法なく被告に有罪判決を言い渡した。この意味だけでも、いわゆる25名のA級戦争犯罪人は犠牲者であり冤罪であったことは明白である。手続き面でも多くの問題があった。原告側の提出する証拠は伝聞証拠までも採用された。これに対して、日本が戦争に至った正当な理由を説明するための、日本の法的権益が侵害された事実、連合国側の違法及び不当な行為、日本国周辺における連合国側の軍事基地拡張及び軍備増強、連合国による日本に対する経済封鎖及び資産凍結、その他の実情を記述した証拠は、日本を裁く本裁判には関係がないとして悉く却下された。戦争は相手があって起こるもの、相手の戦争前の行為や戦争に至る行為も酌量し公平に審理する必要がある。
 
また、全裁判官は連合国から選ばれており、国際法に精通した判事はパール判事一人であった。連合国側の行為は平和に対する罪、人道に対する罪はもとより、一般戦争法規違反についても一切裁かれなかった。アメリカ軍による東京空襲、広島及び長崎での原爆投下は、民間人を対象にした虐殺であり、民間人の殺戮を禁止した一般戦争法規違反であることは明らかであった。ソ連軍による日ソ中立条約侵犯、民間人に対する暴虐行為及びソ連への強制連行とその後の過酷な衣食住環境での強制労働は明確な一般戦争法規違反であった。
 
被告全員を無罪とするという少数意見(反対意見)判決書(dissentient judgment)を書いたパール判事は、連合国が文明の裁きとする東京裁判を、過去営々と築いてきた文明(法体系) への挑戦であり文明の抹殺であると主張し、東京裁判判決を歴史の偽造とまで述べている。
  
パール判事は判決書の最後に、「指導者の罪は単に恐らく妄想に基づいた彼等の誤解に過ぎなかったかも知れない。この様な妄想は自己中心のものに過ぎなかったかも知れない。その様な自己中心の妄想であるとしても、この様な妄想は至る所の人の心に踏み込んだものであると言う事実を看過することはできない。」と記載している。
 
そして、その心境を「時が、熱狂と偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には、そのときこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら過去の賞罰の多くに、そのところを変えることを要求するであろう。」との言葉に託して、判決書を結んでいる。


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