憲法第9条制定は正当か否についての検証

1     はじめに
  1945
814日に日本は日本の降伏条件を規定する布告(いわゆるポツダム宣言)を受諾して降伏し、米国に占領された。そして、日本国憲法はGHQの起案を下にして作成され制定された。占領軍による日本国憲法の制定はハーグ陸戦法規違反であることは明らかである。憲法第9条の規定は現在の日本の安全保障に深く関与している。第9条に関する制定過程と、その過程において生まれた自衛戦争を放棄した平和主義の誤謬性について検証する。

2     日本の降伏条件を規定する布告(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender) (いわゆるポツダム宣言)
  
日本の降伏条件を規定する布告は、法律上は日本がこの条件を承諾すれば終戦にするという双務履行契約の連合国からの申し出である。
 
ポツダム宣言第5条には「我等の条件は以下の通り。我々はそれらの条件から逸脱しない。代わる条件は存在しない。」とあることから、この条件布告は日本の有条件降伏を規定したものである。したがって、日本は無条件降伏したのではない。
 
ポツダム宣言第7条には、「右の如き新秩序が建設せられ、かつ、日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに至るまでは、連合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は、吾らのここに指示する基本目的の達成を確保するため占領されるべし」と規定されている。この規定に基づいて日本は連合国の占領下に置かれ、マッカーサーがSCAP( 連合国最高司令官) として日本の占領統治を委任された。
  
7条の新秩序とは第6条の規定による「無責任な軍国主義が世界より駆逐される」ことであり、第7条の基本目的とは第10条に規定する戦争犯罪人の処罰、民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害の除去、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重の確立である。
 
そして、第12条には、「前記諸目的が達成され、かつ、日本国民の自由に表明する意思に従い、平和的傾向を有し、且つ、責任ある政府が樹立されるに於いては連合国の占領軍は直ちに日本国より撤収される。」とあり、占領終了条件が明示されている。
 日本の国柄を反映し日本国民の精神的支柱たる、自らが作成した大日本帝国憲法を日本国民ではない占領軍が書き換えることが許可されているとは、ポツダム宣言は規定していない。

3     憲法の改正経緯

3.1    1945918日付内閣法制局作成の「終戦と憲法」メモ
  
ポツダム宣言の内容から内閣法制局の入江敏郎第一部長は何らかの憲法の改正が必要と考え、次の検討を行っている。
 
軍制度の廃止に伴い改正を必要とする事項として、天皇の統帥、編成、戒厳など軍事に関する大権条項を全面的に削除し兵役義務を廃止する。
 
ポツダム宣言受諾に伴い考慮すべき事項として、天皇大権事項を残すか否か、存続させる場合には帝国議会の権限を強化する。

3.2    194510 4日のマッカーサーの改正指示
 
マッカーサーは日本国政府東久邇宮内閣副首相の近衛文麿が大日本帝国憲法の改正運動を指導することを提案した。近衛は幣原内閣内大臣府御用掛に任命され、1122日に近衛憲法改正案を天皇に奉答した。126日近衛はGHQから戦争犯罪人に指名され近衛の憲法改正は立ち消えとなる。
  10
4日の会談時の外務省公開メモによると、近衛は、軍閥を利用して日本を戦争に駆り立てたものは財閥や封建的勢力ではなく、マルキシストらの左翼分子の活動によるもので、今日の破局は左翼勢力の思うつぼであったと発言している。すなわち、近衛上奏文に記載されている趣旨である。
  
この時の会談において、マッカーサーは憲法を改正すること、自由主義的要素を取り入れること、選挙権を拡大すること、労働者権利を認めることを指示している。ちなみに、婦人参政権は憲法改正前に実現されている。
 このときのマッカーサーの改正指示には戦争放棄は含まれていない。 

3.3    19451022日付内閣法制局作成のメモ
 
学術の自由、労働の保護、男女平等の明確化がアメリカ、ドイツ、ロシアの憲法を参考にして検討されている。その他、枢密院の廃止が検討されている。

3.4    19451011日付外務省の大日本帝国憲法改正問題試案、憲法改正大綱案
 
ポツダム宣言の内容から、連合国は統治機構、経済制度、文化政策などの大幅な内政改革を要求してくることが予測された。外務省はその前に改革を実施した方が良いと考えて事前検討を行った。928日の外務省の外部意見聴取において、戦後憲法学をリードした東大教授宮澤俊義は大日本帝国憲法に関して次の見解を表明している。
 
大日本帝国憲法は民主主義を否定するものではなく、十分民主的傾向を助成し得るものである。その上で、天皇の神聖不可侵や大権事項は国務大臣の補佐が確立していれば民主主義と矛盾するものではない。天皇の緊急勅令の規定も実質的見地から弊害を認めることができない。
 
すなわち、大日本帝国憲法は国務大臣の十分な補佐を確立していれば民主主義とは矛盾しないとしており、この考え方は19462月の憲法問題調査委員会まで堅持されている。宮澤が翻意するようになった理由は、GHQによる公職追放を免れGHQの占領政策に加担することの方が、自分の将来に得られる利益が大きいと考えたからであろう。

3.5    19451011日マッカーサーの幣原への憲法改正指示
  
109日に幣原喜重郎内閣が成立した。1011日幣原はマッカーサーを訪問し、マッカーサーからポツダム宣言の実現として「憲法の自由主義化」を示唆され、憲法を改正することを指示される。このときのマッカーサーの指示には戦争放棄は含まれていない。これを受けて1025日、政府は松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会を設置する。この委員会の委員に宮澤俊義がいる。
 
このとき、幣原、松本、その他の支配者らや宮澤、美濃部などの有力憲法学者らは、ポツダム宣言の内容(すなわち、民主主義的傾向の復活強化に対する障害の排除、言論・宗教・思想の自由及び基本的人権尊重の確立という占領目的の実現)は、大日本帝国憲法であっても十分に実現できると考えていた。大日本帝国憲法そのものは悪くなく、戦争はその解釈運用を誤った結果であり、解釈運用を誤らなければ大日本帝国憲法も十分に民主的である。むしろ当時の人心の安定していない時には憲法を改正すべきではないと考えていた。
  
審議過程において、戦争放棄規定は議論されておらず、独立国家である以上、軍の規定は必要であるとの意見が多かった。また、武装解除しており、軍の規定を設けることは連合国を刺激するので、軍の規定は設けずに将来法律で手当てするとの考え方もあった。何れにしても、戦争放棄を憲法に規定することは俎上には上がっていない。
  
松本委員会は1946 1 4日に軍を明記した甲案、軍の規定を削除した乙案を起草している。

3.6    1945128日松本国務大臣による松本四原則の提示。
  天皇が統治権を総攬するという大原則は変更しない。議会の議決を要する事項を拡充し、天皇大権をある程度制限する。国務大臣の責任を国務の全般に渡るものとし、国務大臣以外の者の国務への関与を排除し、国務大臣が議会に対して責任を負う。人民の自由・権利の保護を強化し、これらの侵害に対する救済方法を完全なものにする。
  
すなわち、天皇の統帥権を廃止すれば、議会の権限を拡大し、議会に責任を有する国務大臣の輔弼による天皇の統治の総攬は何ら問題ないということである。大日本帝国憲法においては、「天皇は神聖にして侵すべからず」と規定されている。すなわち、天皇は内閣の決定を裁可するだけで政治的決定をしない、したがって、天皇は政治に対する責任を有さないということである。
  
松本4原則にも、戦争放棄、戦力の不保持の原則はない。

3.7    1946111日の米国政府によるSWNCC228
  米国本国の国務・陸軍・海軍三省調整委員会は、改正憲法の骨格を示し、日本国民の自由意思の表明による憲法の改正採択などを規定した「日本統治体制の改革」SWNCC228GHQ に指令した。要点は以下の通りである。
 
日本の統治機構の中にある軍の権威と影響力は日本軍隊の廃止と共に、おそらく消滅するであろうが、国務大臣または内閣閣員は全ての場合に文民でなければならないということを要件とすることにより、軍部は政府に永久的に従属するという正式の措置がとられることが望ましい。
 
日本における政府と軍部による二重政治の復活を阻止し、かつまた国家主義的、軍国主義的団体が太平洋における将来の安全を脅かすために皇帝を用いることを阻止するための諸規定が設けられなければならない。
  
すなわち、SWNCC228においても、軍部の存在は認められており戦争放棄は規定されていない。むしろ、文民条項の下の軍部の存在を前提にしている。

3.8    1946124日の幣原・マッカーサー会談
  
戦争放棄と戦力不保持の提案は誰によって真っ先に成されたかの問題があるので、当会談については後述する。

3.9    194621日毎日新聞が憲法問題調査委員会試案をスクープ
 
憲法問題調査委員会の甲案、乙案ではなく宮澤委員が委員会の審議のために私的に作成していたものが漏洩して毎日新聞に掲載された。GHQはこの記事を見て、自分達が考えている方向の改正ではないとして、マッカーサーは憲法改正案の起案を民政局に指示した。

3.10  194623日のマッカーサー三原則
  1946
23()、マッカーサーは毎日新聞に掲載された改正案が不十分であるとして、マッカーサー三原則を示してGHQ民政局に憲法草案を作成することを指示した。三原則とは天皇は国家元首、戦争放棄、封建制度の廃止である。
 
改正案の起草において、SWNCC228は憲法案を拘束する文書に指定された。
 マッカーサーとGHQ 民政局は、日本から示された松本委員会案を一顧だにすることなく、本国指令のSWNCC228の統治体制改革とマッカーサー三原則に基づいて、憲法改正の総司令部案が作成されることになる。
 日本の占領管理に関する最高の政策決定機関として、極東委員会( 連合国委員で構成) がワシントンに設置されていた。マッカーサーは、天皇廃止と天皇の戦争犯罪訴追とを主張するソ連及びオーストラリアの意見に基づく憲法改正案が、極東委員会から先に出ることを恐れて日本での憲法改正を急がせた。これが、マッカーサーによる1946 2 3日の民政局長官ホイットニーに対するマッカーサー三原則を提示しての日本国憲法草案の作成指令である。作成期限はなんと9 日後の2 12日である。日本の歴史も文化も何も知らないGHQ 民政局職員の突貫作業により日本国憲法の草案が作成された。このGHQの起案作業は秘密裏に行われた。
 憲法前文は、合衆国憲法、リンカーンのゲティスバーグ演説、マッカーサー三原則、米英ソ首脳によるテヘラン宣言、大西洋憲章、米国独立宣言を考慮して、ハッシー海軍中佐一人だけで起案された。憲法前文は、米国人の当時の認識により米国人から強制された英文の翻訳文である。

3.11  194627日憲法問題調査委員会案の天皇へ上奏、8GHQに提示
 194627日憲法問題調査委員会(松本委員会)の改正要項は天皇へ上奏され、甲案、乙案が翌28日マッカーサーに提示される。このとき、日本政府はGHQが憲法草案を作成していることを知らなかった。GHQが日本案を受けた時、既にGHQ案を起草中であったことを考えると、マッカーサーは元々、日本案を考慮する意思は全くなかった。

3.12  1946213日のGHQ案の日本政府への提示と日本政府案の拒絶
  1946
213()27日にGHQ に提出した改正要綱に対する回答を外務大臣公邸においてGHQから受ける日であった。ところが、民政局長ホイットニーは、日本案は全く受諾できないと言い、GHQ 側で作成した憲法草案を日本政府に提示しその草案に基づく日本案を 3 4日までに提出するように指令した。このとき、日本政府の吉田、松本、白洲は驚愕と憂慮の表情を示し呆然自失であった。213日はGHQに恐喝・強制された日本国憲法の誕生の運命の日となる。
  GHQ
草案では、マッカーサー第 2原則の戦争放棄条項にあった「自己の安全を保持するための戦争の放棄」、すなわち、自衛戦争の放棄は削除されている。これは、極東国際軍事裁判(東京裁判)で日本を裁く根拠となった不戦条約( 1928) の立法趣旨( 自衛戦争は禁止していない) からして主権ある国家に自衛戦争まで放棄させることは現実的ではないとして、民政局次長ケーディスが削除した。

3.13  GHQ案の検討とGHQ民政局との交渉
 1946213日にGHQ案を提示された日本政府はその内容に動揺した。GHQ案の交付後、219日になって漸く閣議が開催された。閣議において幣原首相は、三土内相、岩田法相と共にGHQ案は受諾できないと発言するも、結論は得られなかった。その後の民政局との交渉において、日本政府は日本の憲法改正案は形式こそ異なれ目的においてGHQ案と同一であると民政局に説明するが、民政局はGHQ案を受け入れないと外部から憲法が日本に押し付けられる可能性がありGHQ案は天皇を護る最終案であると日本に警告した。日本政府は憲法改正案説明補充書を提出し、憲法はその国の国情と民情に則して適切に制定される場合においてのみ好結果が得られると説明した。しかし、GHQは、最後は日本の改正案を拒絶し48時間以内にGHQ案に同意するか否かの回答を迫り、同意しなければ直接国民に問うと脅迫した。

3.14  1946221日幣原・マッカーサー会談
  1946
221日幣原はGHQの真意を確かめるためにマッカーサーを訪問する。マッカーサーは幣原に次の趣旨のことを述べている。ワシントンにおける極東委員会の議論は幣原の想像にも及ばない程日本にとって厳しいものである。ソ連とオーストラリアは日本の復讐戦を危惧し、極力これを防止するようにしている。この動きを抑止するには、天皇の象徴と戦争放棄の条項を定める必要がある。日本が戦争を放棄することの声明を出して、モラル・リーダーシップを握るべきである。これに対して、幣原は日本が戦争放棄のリーダーシップをとると言っても、どの国も追随しないであろうと発言している。これに対して、マッカーサーは追従者がいなくとも日本は失うところはない、これを支持しないのはしない者が悪いと発言している。
 
この幣原・マッカーサー会談の報告を受けて、閣議においてGHQ案を受け入れ、この案に基づいて日本案を起案することが決定された。
  
なお、幣原・マッカーサー会談が行われた221日は、極東委員会も対日理事会も未だ開催されておらず、議論はなされていない。したがって、マッカーサーの述べた極東委員会の議論の存在は疑問である。マッカーサーが憲法制定の主導権をとり、GHQ案を日本政府に強圧するためにしたマッカーサの詭弁の可能性がある。

3.15  194634日日本案のGHQへの提示
  
結局、日本政府はGHQ案を受け入れ、GHQの英文案に基づいて日本案を起草することになる。日本政府は戦争放棄に法的拘束力を持たせず、原則的規定にして前文に記載することを提案した。しかし、民政局長ホイットニーは、マッカーサーは戦争放棄条項があることで日本が世界から好意的な目で注視されるとの考えであると日本側に伝え、この戦争放棄は決定的重要性を持ち憲法第1章に規定されても良いものであると発言している。
 
象徴天皇を定めた天皇条項と戦争放棄条項はGHQ草案の通りにせよと、日本側の修正案は全く受け入れられなかった。天皇条項と戦争放棄条項は、これを飲まないと天皇の存続と戦争犯罪不起訴( 不起訴にはソ連の反発があった) はないと、日本政府は脅迫されていた。

4     第9条案の変遷

4.1    マッカーサー三原則
  
国の主権的権利としての戦争は廃止(abolished)される。日本は、自国の紛争を解決するための手段としての戦争を、さらに自国の安全を保全するための手段としての戦争をも(even)放棄(renounce)する。日本は、自国の防衛と保護のために、現今世界を動かしつつある崇高な理念に依存する。
 日本の陸軍、海軍、空軍は認められることなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
  
マッカーサー三原則では、自国の安全を保全するための戦争も放棄されることになっている。また、国の主権的権利としての戦争とあることから、戦争自体は国の有する権利であるとの認識である。

4.2    GHQ
  
国家の主権的権利としての戦争は廃止される。武力による威嚇又は武力の行使は、他国との紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。
 
陸軍、海軍、空軍、その他の戦力は認められず、交戦権は日本に与えられない。
  
マッカーサー三原則は自衛戦争、自国の安全を保全するための戦争も放棄させているが、マッカーサー三原則を受けたGHQ民政局の起案では、自衛戦争は放棄させていない。これは民政局が、国家は固有の権利として自存のための自衛権を有していることは国際法上当然であると判断したからである。

4.3    政府の憲法改正草案(1946417)
  国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを放棄する。
 
陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権はこれを認めない。
  GHQ
案に対して、他国との間の紛争の解決手段として放棄されるべきものが戦争と、武力威嚇と武力行使であることが明記された。自衛権の行使のための戦争は、他国からの侵攻、すなわち、国家主権の侵害を排除することを目的とする。したがって、自衛権の行使は他国との間の紛争を解決するために積極的に行うものではないので、自衛権の行使たる自衛戦争は認められる。

4.4    衆議院芦田委員会案(1946820)、現日本国憲法
 
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 
前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
  
芦田は1946113(改正憲法公布日)発行の『新憲法解釈』の中で次のように述べている。
 
9条の規定が戦争と武力による威嚇を放棄したことは、国際紛争の解決手段たる場合であって、これを実際に適用すれば、侵略戦争ということになる。従って自衛のための戦争と武力行使は、この条項によって放棄されたのではない。また、侵略に対して制裁を加える場合の戦争も、この条文の適用外である。それらの場合には戦争そのものが国際法の上から適法に認められているのであって、1928年の不戦条約、国際条約及び国際連合憲章においても、明白にこのことを規定しているのである。
  
また、芦田は後に憲法調査会において、次の趣旨のことを述べている。原案のままではわが国の防衛力を奪う結果となる。GHQは如何なる形でも戦力の保持を認めないと思っていたので、明確に自衛のための戦力を保持するとは規定できなかった。第2項に「前項の目的を達成するため」とあることにより、一定の条件の下に武力を持たないのであって(侵略戦争のための武力を持たないのであって)、無条件で武力を持たないという意味ではない。換言すれば、国家の自然権として認められている自衛権のための武力を持つことができると解釈できる。
  
民政局長ホイットニーは、この修正憲法は日本が防衛軍を持つことができると解釈できると発言している。

  
なお、1946727日の委員会では「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」と「前項の目的を達成するため」の追加修正が審議され、729日の委員会では前回の委員会の意見を纏める形で、芦田委員長は次の条項案を提案した。
  
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力はこれを保持せず、国の交戦権を否認することを声明する。
  
前項の目的を達成するため、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 
すなわち、現在の第9条の1項と2項とを逆にする案であった。この場合の前項の目的は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求することであった。しかし、委員会の結論は、現憲法第9条の通りとなった。
 
これにより、第2項における「前項の目的を達成するため」が存在することにより、第2項の戦力不保持と交戦権否認は第1項の国際紛争解決のための国権の発動たる戦争を放棄するためであるとの解釈が可能となった。すなわち、自衛のための戦力の保持と自衛戦争は容認されるとの解釈が生じ得るようになった。

 なお、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」は、委員会において日本国民の積極的な意思を表示すべきとの意見により加えられたと言われる。しかし、この表現は、マッカーサー三原則にある「現今世界を動かしつつある崇高な理念に依存する」及び憲法前文の「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」のマッカーサー及びGHQの意向を反映したものに過ぎない。

5     自衛戦争を含む戦争放棄と自衛のための戦力を含む戦力不保持の起源
 
自衛戦争を含む戦争放棄と自衛のための戦力を含む戦力不保持を、以下「完全戦争放棄及び戦力不保持」という。

5.1    1946124日の幣原・マッカーサー会談
  幣原がペニシリンのお礼にマッカーサーを訪問した際に、幣原が完全戦争放棄及び戦力不保持をマッカーサーに提案したと言われている。
  
この会談は通訳を交えず二人きりで行われたため、議事録や公式の外交文書は存在しない。また、1946124日の会談からマッカーサー三原則がGHQ民政局に指令された23日までの間における当事者の発言及びその発言の伝聞は一切存在しない。したがって、会談内容を立証する証拠は存在しておらず、完全戦争放棄及び戦力不保持の提案者が何れであるかの厳密な証拠は存在しない。
 
幣原の提案であることを示唆するものとして存在するのは、幣原・マッカーサー会談日から約6年が経過した後におけるマッカーサーの発言記録、その伝聞記録及び自著の回想記と、幣原の発言の伝聞記録及び自著の外交五十年である。発言や伝聞記録の信憑性は、発言や記録が成された時期が、憲法公布の4年半後であり、東西冷戦が激化し朝鮮戦争のまっただ中であって日本が再軍備を米国から要求されるようになった時代であるということを考慮して評価する必要がある。

5.2    対日理事会委員マクマホン・ボールの1946625日の日記
 
完全戦争放棄及び戦力不保持に関することを記述した最先の資料は、1946625日の対日理事会委員マクマホン・ボールの日記である。1946625日の日記には、次の趣旨のボールとマッカーサーとの会談の内容が記載されている。
  
ボールは、日本の議会が憲法案を採択すれば新憲法は最終のものとなるとの印象を与えるのは良くない、2年以内の見直しに関する条項をつくるべきとのオーストラリア外相の見解をマッカーサーに伝えた。すると、マッカーサーはこれに激怒し激しく興奮しながら、そのようなGHQに対する攻撃の背後にはロシア人の存在があるはずである、憲法草案は素晴らしく基本原則は疑いもなく見事なものであるので、極東委員会は法律文書として批判することはできないと言った。これに対して、ボールは、憲法草案に関して本当に問題となるのは、法律文書として欠陥があるかどうかではない、マッカーサーの承認を得ようとして作成されたかではなく、むしろ日本国民の意思を正しく表すものとして作成されているのかどうかという点であると反論した。すると、マッカーサーは憲法に関する日本人とのやりとりについて、率直に正直に詳しく話したいと、次のことを述べた。
 
戦争放棄に関して、幣原首相はマッカーサーに、「どのような軍隊なら保持できるのですか」と尋ねた。マッカーサーは「如何なる軍隊も保持できない」と答えた。幣原は、「戦争放棄ということですね」と言った。マッカーサーは、「そうです。あなたがたが戦争を放棄すると公言すれば、その方があなた方にとって好都合だと思いますよ」と答えた。
 
マッカーサーは、如何なる軍隊も保持しない戦争放棄を、すなわち、自衛戦争も放棄し自衛のための戦力をも保持しないことを提案している。この趣旨は、マッカーサー三原則の第2原則の内容そのものであり、GHQ憲法草案には存在しない。ということは、この幣原とマッカーサーの会話は、マッカーサー三原則が民政局に指示される前に行われたことを意味する。とすれば、この会話は、1946124日の幣原・マッカーサー会談で交わされた会話であると断定できる。
  
上記の会話において、幣原は「どのような軍隊なら保持できるのですか」と尋ね、マッカーサーは「如何なる軍隊も保持できない」と回答し、幣原は「戦争放棄ということですね」と確認している。完全戦争放棄及び戦力不保持を幣原が最先に提案したのであれば、自ら提案しておきながら幣原がこのような発言をする訳がない。この会話は、憲法に戦争放棄の規定を置くことを、幣原が提案したことは有り得ないことを示している。
  
また、上記の会話は、憲法草案が日本国民の意思を正確に反映しているのかとボールに聞かれて、マッカーサーが幣原首相との会談時の会話として話したものである。すなわち、マッカーサーとしては、戦争放棄条項は日本国民の意思(幣原の意思)であると言いたいはずであるが、自ら、「如何なる軍隊も保持することができない、戦争放棄ということである」と発言しているのである。よって、現憲法第9条は、幣原の発案ではなくマッカーサー三原則によるマッカーサーの発案であり、その発案に基づいて民政局が起案したものであることは明らかである。
  
完全戦争放棄及び戦力不保持は幣原の発案であるとする伝聞証言の全ては、幣原・マッカーサー会談の日から約6年以上も経過した後のものである。その点、本日記は日本国憲法の公布前、政府案が衆議院に上程された日の証言記録であり、その後の世界情勢の影響を受けていない。しかも、この記録は、占領を実施しているアメリカ人でも当事者の日本人でもない直接的な利害関係のない第三者による記録である。したがって、この証言記録は、最も信憑性が高いと言える。

5.3    幣原提唱を否定する時系列的検討
  完全戦争放棄及び戦力不保持の発案は誰であるのかは、時系列でみないことには、真理には到達しない。幣原の周囲の多くの者は、幣原が提唱者ではないとしている。

憲法中に陸海軍に関する規定を設けることを幣原は同意
  1946
28日に軍の規定が残されている憲法改正要綱と、統帥権の独立を廃止し議会による軍の統制の強化を説明した『憲法中陸海軍に関する規定の変更について』と題する説明書を、日本政府はGHQに提出している。この提出に幣原は首相として同意している。また、218日に松本国務大臣が再説明書を提出した時も幣原首相は異議を唱えることなく同意している。

幣原はGHQ憲法草案に不同意
  1946
213日にGHQ案が吉田外相、松本国相、白洲参与に手交されたが、戦争放棄条項を初めて目にして狼狽した。説明を受けた三人とも第9条が日本国首相である幣原の案とは聞かされていない。その後GHQ案は幣原首相に渡されたが、内容があまりにも深刻なためこれを暫く秘密に保持し、閣議が開かれたのは6日後の219日である。白洲は民政局長ホイットニーに何度か面会し政府案を説明しているが、216日のホイットニーから白洲への手紙において、ホイットニーは、GHQ案を受け入れないと外部から日本に憲法が押し付けられる可能性が多分にあり、GHQ案を受け入れることが天皇制を護る最終案であると、政府に警告している。閣僚にとって、GHQ案は政府の憲法改正要綱とは異なり意外なものであったため、幣原を含む閣僚はGHQ案の対処にあわてふためいている。この閣議で幣原はGHQ案には同意できないと明確に述べている。

幣原は戦争放棄条項に懐疑的
  1946
221日に幣原は日本案に関してマッカーサーと会談し、翌日の閣議でその会談内容を報告している。その報告によると、マッカーサーは、基本条項は天皇と戦争放棄の条項であり、日本が国策遂行のためにする戦争は放棄すると声明し、世界の平和実現に向けて日本はモラル・リーダーシップを握るべきであると発言した。これに対して幣原は、リーダーシップというが、恐らく誰も追従者にはならないと発言した。すなわち、幣原は戦争放棄条項を設けることには懐疑的であったと、閣議に出席していた芦田が日記に残している。

GHQ
は戦争放棄を憲法前文に入れる日本提案を拒否
  
閣議がまとまらなかったため、1946222日に吉田、松本、白洲が民政局長ホイットニーを訪ね、戦争放棄は条文に記載するのではなく、前文に入れたいと申し入れた。しかし、民政局長ホイットニーは、この規定は最も顕著に世界の人目を聳動することを要するものであるので、断じて条文中に置くべきである、これを第1条に置きたい程の規定であると述べている(芦田日記)。ホイットニーは、この規定が幣原の発案であるとは言っていない。また、このときの閣議において、幣原は、GHQ案の一番の眼目は天皇の象徴の規定と戦争放棄の規定である。このようなことは全然日本は考えていなかったと言っても良いと述べている。

幣原は戦争放棄信念を閣議で一貫して披露せず
 
吉田内閣の金森憲法担当相は、幣原は閣議で一度も自衛戦争を含む戦争の放棄と戦力の不保持(完全戦争放棄及び戦力不保持)という信念や、これを憲法の条項にしたいとは発言したことはなかったと、述べている。幣原は自著の外交五十年において、如何なる戦争も放棄して如何なる武力も保持しないのが日本の生きる道であると固い信念を抱くに至ったと、当時のことを語っている。自信家の幣原が、固い信念を有したまま、5年近くも自分の信念を誰にも明かさないでいられたとは到底考えられない。

幣原は勝者の根深い猜疑と弾圧を和らげる悲しき手段との無念を吐露する
  
幣原と親交のあった柴垣隆は、「幣原が、『今度の憲法改正も、陛下の詔勅にある如く、耐え難きを耐え、忍ぶべからざるを忍び、他日の再起を期して屈辱に甘んずるわけだ。これこそ敗者の悲しみというものだ』としみじみ語り、そして傍らにあった何か執筆中の原稿(外交五十年)を指して、『この原稿も、僕の本心で書いているのではなく、韓信が股をくぐる思いで書いているものだ。何れ出版予定のものだが、お手許に送るつもりだから読んでくだされば解る。これは、勝者の根深い猜疑と弾圧を和らげる悲しき手段の一つなのだ』と懇々と説明された」と証言している。

子息の幣原説否定の証言
 子息の獨協大学名誉教授幣原道太郎は、絶対に父が第9条の発案者ではないと確信していると証言し、次のように述べている。「父の宿願は世界同時的双務的戦争放棄であって、日本一国のみの戦争放棄ではない。新憲法を日本人の自家製と思い込ますマッカーサーの企てに抗する術もなく、転嫁された全責任を一身に負い、無念と諦観を真実への沈黙に託し、心にもなき言辞に余憤を込め、一縷の期待を国家の将来に寄せた屈辱、哀憐の宰相としての幣原を平和憲法の生みの親と讃えるが、これこそ幣原を誤解、冒涜するも甚だしい。」と幣原道太郎は述べている。

幣原の悔し涙
 増田福島県知事は、19462月に総理執務室で幣原に面会したとき、幣原は、「私は今、涙が出てしようがない。新憲法案(GHQ)が提示されて読んだ。君から見ると不満な点が多々あることであろうと思う。天皇制が護持されている。この一事から一応満足してこの憲法を通さなければならないだろう」と言って、ハンカチで涙をぬぐったと証言している。

幣原の諦観
  1949
5月に幣原が衆議院議長に就任したときの発言がある。GHQ案を閣議で審議しその結果をマッカーサーに報告に行ったとき(1946221)、マッカーサーから、日本は占領下にあり自ら憲法を制定する資格を持ち得ない、ソ連は天皇の戦争責任を本気で追求しようとしている、その楯となるのが日本国憲法であると、聞かされた。それで幣原は天皇の身体を守るにはこの憲法を受けざるを得ないと思った。

GHQ
はマッカーサー・ノートの第二原則に幣原発案の追記を要請
  1950
1111日に元ジャパン・タイムズ記者村田は、1950年に英語で発表された『日本の政治的再編成』に記載された日本国憲法制定過程を記事にすることの許可を得るためにGHQを訪れた。GHQは即答をせずに検討すると言い、23日後にGHQから許可の回答があった。しかし、記事にするには、マッカーサー・ノートの第二原則の戦争放棄を記載した文の後に、「この考えは、最初に当時の幣原首相から最高司令官に表明され、司令官は直ちにそれに心からの指示を与えた」との括弧書きを追加挿入することが条件であると要求された。この時期19501111日は、完全戦争放棄及び戦力不保持の信念を吐露した幣原の外交五十年が新聞に連載されて幣原の信念がGHQに知られ得る時期であり、米国上院軍事・外交合同委員会において戦争放棄は幣原の発案であるとマッカーサーが証言した時の半年前である。さらに、朝鮮戦争が勃発しマッカーサーが日本に再軍備を要請した時期である。マッカーサーが完全戦争放棄及び戦力不保持を提唱したとすることは、マッカーサーにとって不都合な事実であり、マッカーサーにとっては幣原がそれを発案したとすることは好都合であった。

5.4    幣原提案説を支持する後日談及び伝聞
マッカーサー証言
  
195155日の米国上院軍事・外交合同委員会において、マッカーサーが1946124の会談において幣原から提案があったと証言したと言われている(なお、合同委員会の議事録は未確認)
  
この発言は、朝鮮戦争期間中であって日本が再軍備を米国から強要されている時期であり、再軍備を禁止した憲法第9条がマッカーサーの発案であるとは言えない時期であった。したがって、マッカーサーの上院軍事・外交合同委員会での証言は、マッカーサーへの追求を回避するための自己保身の可能性が高い。

マッカーサー回想記
  1964
年訳本出版の自著のマッカーサー回想記によると、次のように記載されている。「1946124日の幣原首相との会談において、幣原は戦争を放棄し軍事機構を一切持たないことを規定することを提案した。そうすれば、旧軍部が何時の日か再び権力をにぎる手段を未然に打ち消すことになり、また、日本には再び戦争を起こす意思が絶対にないことを世界に納得させ得るという二重の目的が達成される」と幣原は発言したとある。
 
これと同趣旨のことが、憲法調査会長高柳賢三の問合せ書簡に対する19621210日付のマッカーサーの回答書にも記述されている。
 
この回想記は、日本が自衛隊を有し、日米安全保障条約が改正された後の1964年のことであることに留意する必要がある。
  
回想記は1946124日の幣原・マッカーサー会談の日から18年後に記載されたものであり、冷戦の激化にあって日本を非武装とした反省もあり、マッカーサーとしては責任逃れの面もあることを考慮する必要がある。
  
また、朝鮮戦争において原子爆弾の投下をトルーマンに提案したマッカーサーが、「戦争を国際間の紛争解決手段とすることは時代遅れであり、国際紛争解決のための戦争を廃止することは、私が長年熱情を傾けてきた夢だった。」とも語っている。マッカーサー回想記の記述内容については後述する。

幣原の外交五十年
  
幣原の発言では、1951年に自著の外交五十年が最も幣原の心境を表していると言える。外交五十年については、後述する。

幣原伝聞証言
  
幣原の発言を聞いた者の記録として、羽室メモ、記者小山武夫が幣原から聞いたことを、小山が発言したのを他人が記録したテープ、秘書官の平野三郎の幣原聴取書がある。
  
幣原が死亡したのは1951310日である。したがって、幣原からの聞き取りはこの日より前であることは確実である。幣原が完全戦争放棄及び戦力不保持の信条を初めて吐露したのは序文日付195132日の外交五十年とそれに先行する19509-11月の新聞連載である。
 
上述したように、幣原と親交のあった柴垣隆は、「この原稿も僕の本心で書いているのではなく、韓信が股をくぐる思いで書いているものだと」と証言している。したがって、幣原がこの外交五十年を脱稿する前に幣原の完全戦争放棄及び戦力不保持の信条を他人に吐露したとは考え難い。よって、幣原からの伝聞は、全て195132日周辺の期間のものと思われる。
 
羽室メモは、羽室が幣原から直接聞いたのではなく、父親の大平が幣原から聞いたことを、後日、羽室に話して羽室がメモにしたものであり、羽室がメモを作成した日は幣原の死後13年も経過した1964年のマッカーサー回想記と同日である。
 
小山の伝聞発言のテープは、幣原自身の発言記録ではない。このテープは、憲法調査会の小山への審尋に対するもので、幣原の死後6年が経過した1957年以後のものである。
  
平野の幣原聴取書(平野メモ)は幣原の死後13年も経過した1964年のものである。平野は、幣原の死亡10日位前の19512月下旬に、幣原が「口外無用」として語った内容であると述べている。平野メモによると、幣原は、戦争の永久放棄のためには、世界を統一した武力で制限し、世界同盟を締結すべきとの理想を述べている。しかし、この思想は幣原の外交五十年には存在しないし、1946221日の幣原・マッカーサー会談において、日本が戦争を放棄すると声明し、世界の平和実現に向けて日本はモラル・リーダーシップを握るべきであるとのマッカーサーの発言に対して、リーダーシップというが恐らくだれも追従者にはならないとの幣原の発言と完全に矛盾している。幣原が「口外無用」として平野に語ったのは19512月下旬である。幣原の外交五十年における完全戦争放棄及び戦力不保持の信条と憲法制定を記載した部分は、195095日から1114日の期間に読売新聞朝刊に既に連載されている。すなわち、既に幣原の完全戦争放棄及び戦力不保持の信条が公開された後に、「口外無用」と平野に言うであろうか。
  
外交五十年の序文日付は195132日である。幣原は、幣原の完全戦争放棄及び戦力不保持の信念を吐露した書籍が近日中に発刊されることを知りながら、「口外無用」と言いながら大平、小山、平野の特定人にだけ秘密にして来た自己の信念を明かすことをするであろうか。
 
幣原から聞き取とった者が記録に残したのは、幣原の死後10年以上も経過した年、憲法調査会が設立された1961年以後である。したがって、幣原・マッカーサー会談の内容を真正に立証し得るには証拠性に乏しい。
 
これに対して、幣原が提案したのではないという記録は、全て、憲法草案の審議にかかる19461月〜9月のものであり、リアルタイムの記録である。それらの記録の信憑性は極めて高い。

5.5    幣原著外交五十年 
 
幣原自身の思想の開示は、195095日〜1114日読売新聞で連載され、19514月読売新聞社から出版された幣原自著の外交五十年のみである。
  
しかし、この書籍において、1946124日のマッカーサーとの会談において、完全戦争放棄及び戦力不保持を幣原が提案したとの明確な記載はない。
 
外交五十年には、次の趣旨の記載がある。「1945815日の終戦日の電車の中で若者が『無条件降伏ではないか。足も腰も立たぬほど負けたじゃないか。おれたちは知らん間に戦争に引き入れられて知らん間に降伏する。怪しからんのはわれわれを騙し討ちにした当局の連中だ。』と騒いでいるのを聞いて、再びこのような自らの意思でもない戦争の悲惨事を子孫に味合わせないように政治の組立から改めなければならないと言うことを深く感じた。」とある。
 
そして、「1945109日に首相に就任した時に直ぐに、815日の電車の中の光景を思い出して、憲法の中に、未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならないということは、他の人は知らないが、私にとっては信念であり、一種の魔力とでもいうか、見えざる力が私の頭を支配したのであった。」とある。

 
すなわち、完全戦争放棄及び戦力不保持は、幣原が首相に就任した時に着想したのであって、伝聞証言で言われているような194512月末から風邪でうなされている時に着想したのではない。幣原は、この着想の後、19451011日にマッカーサーと会談し、マッカーサーから憲法改正を指示されているが、このときには完全戦争放棄及び戦力不保持を提案していない。

 
幣原著外交五十年は、憲法が施行されて4年が経過し、朝鮮戦争の勃発1年後、日本がマッカーサーから再軍備を要請されている時期に、幣原が過去を回想して記述したものである。ある意味、新憲法が施行されて36月後に、改正憲法の起案を回想して、幣原が自慢して記載したとも言える。
 
外交五十年を読むと、幣原は可なり自信家であり、失敗談の記述がない。外交官でありながら、自分のかかわった外交問題について、問題を先延ばしにし、且つ、事なかれ主義に徹し他人事のように語っている。自信家にしては、1946124の会談において幣原からマッカーサーに完全戦争放棄及び戦力不保持を提案したことを明確に記述していないことが不思議である。


  幣原が最初の提案者であるか否かを適正に判断するには、マッカーサー及び幣原の発言の時期が、朝鮮戦争の期間中であり、GHQによる言論の検閲があり、連合国に対する批判と戦前の日本の行為に対する弁護が禁止され、憲法は日本自ら作成したと見せかけて、GHQが憲法を作成したことに対する批判が禁止されていたGHQの占領下の期間であったことに留意する必要がある。
  
外交五十年の記載内容とその批判については後述する。

 

6     マッカーサー回想記(1964,翻訳出版同年)
  自著マッカーサー回想記では、朝鮮戦争において原子爆弾の投下をトルーマン大統領に提案したマッカーサーが、「戦争を国際間の紛争解決手段とすることは時代遅れであり、国際紛争解決のための戦争を廃止することは、私が長年熱情を傾けてきた夢だった。」と語っている。
 
また、マッカーサーは、GHQ憲法草案の骨格になった三原則の第2原則において、自衛のための戦争も放棄し、自衛のための一切の武力も保持しないとしている。
 
しながら、マッカーサー自著の回想記では、改正憲法について「第9条は、国家の安全を維持するため、あらゆる必要な措置をとることを妨げてはいない。だれでも、持っている自己保存の法則に、日本だけが背を向けると期待するのは無理だ。攻撃されたら、当然自分を守ることになる」とマッカーサーは述べている。
 
回想記において、戦争放棄について、マッカーサーの思想を以下のように述べている。「第9条は、他国への侵略だけを対象にしたもので、私は新憲法採択の際に言明し、その後、もし必要な場合には防衛隊として陸兵十個師団、それに見合う海空兵力から成る部隊を作ることを提言した。私は日本国民に次のことをはっきり声明した。世界情勢の推移で全人類が自由の防御のため武器をとって立ち上がり、日本も直接攻撃の危機にさられる事態となった場合には、日本もまた、自国の資源の許す限り最大の防衛力を発揮すべきである。
 
憲法第9条は最高の道義的理想から出たものだが、挑発しないのに攻撃された場合でも自衛権を持たないという解釈はどうこじつけても出てこない。この条項は、剣に破れた国民が、剣を頼りとしない国際的道義心と正義感の終局的勝利を信じていることを、声高らかに宣言するものである。
 
しかし、国際的な盗賊行為が地上をなめまわし、その貪欲さと暴力で、人類の自由を踏みにじることが許される限り、憲法第9条の高遠な理想が、世界に受けいれられることは容易でなかろう。しかし、物事にはすべて始めがなければならないことは、鉄則である。」とマッカーサーは回想記に記述している。
  
この記載内容から明らかなように、完全戦争放棄及び戦力不保持がマッカーサーの発案とするには、マッカーサーにとっては真に不都合であった。マッカーサーは、三原則において日本は自国の安全を保全するための戦争をも放棄するとしていたが、直後には、明らかに考えを変更していたことが解る。

7     幣原著の外交五十年(195095日〜1114日読売新聞連載、19514月読売新聞社刊)
  
幣原は、次の趣旨のことを記載している。
 
「戦後の混沌とした世相の中で、私の内閣の仕事は山ほどあった。中でも一番重要なのは新しい憲法を起草することであった。そしてその憲法の主眼は、世界に例のない戦争放棄、軍備全廃ということで、日本を再建するにはどうしてもこれで行かなければならんという固い決心であった。戦争を避けるには、積極的に軍備を全廃し、戦争を放棄してしまうのが一番確実な方法である。軍備などよりも強力なものは、国民の一致協力ということである。武器を持たない国民でも、それが一団となって精神的に結束すれば、軍隊よりも強いのである。日本国民全員が死滅されることは不可能である。したがって、国民各自が一つの信念、自分が正しいという気持ちで進むならば、徒手空拳でも恐れることはない。日本の生きる道は、軍備よりも何よりも、正義の本道を辿って天下の公論に訴える以外にはない。殺される時は殺される。むしろ、一兵も持たない方が、かえって安心である。わずかばかりの兵隊を持つよりも、むしろ軍備を全廃すべきという不動の信念に、私は達した。」と幣原は自著外交五十年において記載している。

  
幣原の思想は「武器を持たない国民でも、それが一団となって精神的に結束すれば、軍隊よりも強い」と主張するもので無抵抗精神主義であり、「日本国民全員が死滅されることは不可能である」とか「殺される時は殺される」とか、国民が殺されることを幣原は容認している。幣原は首相としての国防の観点がなく呆れるばかりである。極めて異常な精神論である。国民の安全保障を考えない幣原の思想は平和主義では有り得ない。
 
マッカーサー回想記に記述されている「国防平和主義」と幣原の「国民の生命を犠牲にした自滅的平和主義」と何れが現実を見据えた真の平和主義であるのかは火を見るよりも明らかである。GHQ草案が民政局から日本政府に提示された時、次長ケーディスは、日本が自衛のための戦力を保持し自衛権を行使できることを容認している。この時、幣原内閣は自衛戦力と自衛権の保持を、明文をもって憲法第9条に規定することを民政局と交渉すべきであった。今となっては幣原の不作為の罪は重い。

8     9条の戦争放棄に関する評価

ニューヨーク・タイムズは、日本政府の憲法案が公表された時、次の社説を展開している。
  
「最も不可思議にして驚くべきことは、日本は今後その国防を兵力によらず、世界の平和愛好国の信義に依存しなければならないと宣言していることである。これは理想主義的献身とも言うべき自己否認である。もしこの憲法が採用されるならば、世界の人びとは、かくも無条件に平和愛好国に頼る子供らしい信念に対して、これらの国の信義がそれに呼応するよう向上せんことを願う以外に方法はない。」と辛辣に批判している。
 

9     GHQによる強制性
  
日本はポツダム宣言の受諾により、(1)大日本帝国憲法を廃棄して新憲法を採択すべきとの国際的義務が課せられていたか、(2)軍事占領期間中の新憲法の事実上の強制が法的に正当化されるものであったか、が問題である。ポツダム宣言は、民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去することを規定していて、占領軍により日本の国柄、日本の歴史、日本人の有り様を規定する憲法を書き換えることまでは許可していない。
  1907
年ハーグで締結された陸戦の法規慣例に関する条約の付属書たる陸戦の法規関連に関する条約第43条は、国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限、占領地の現行法律を尊重して、成るべく公共の秩序及び生活を回復確保するため、施せる一切の手段を尽くさなければならないと、規定している。
  GHQ
が憲法草案を起草して、日本政府にこの草案に基づいて政府案を作成するように指令したことは、明らかにハーグ陸戦条約違反である。

10  西ドイツの場合
  
西ドイツは、軍事占領下では憲法制定の必須条件である国民の自由意思の発現が欠如しているとして、憲法制定を拒否し基本法を制定した。
 
基本法は占領中の暫定法であり、第146条に、将来ドイツ国民の自由な決意によって制定される憲法の発効と同時に、この基本法は効力を失うとある。基本法は西ドイツの基本法制定委員会が自主的にその内容を決定した。基本法では、戦前と同一の教育制度を維持承継し、科学技術教育面の拡張を追加した程度である。
  
日本も、このように将来日本人が自分達の手で大日本帝国憲法を改正することを前提にして、基本法を制定することはできなかったのかと思う。

11   平和主義
  
国際紛争を解決するために侵攻戦争を他国に対して起こさないことが平和主義である。他国から日本が侵略された場合に、無抵抗で戦わずに殺されることが平和主義では有り得ない。時の政府は日本国民の生命、自由を保障するための自衛戦争と自衛のための戦力の保持は、憲法に明確に記載しておくべきであった。これが真の平和主義である。
  
日本国憲法の前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。これは国連憲章を信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意したという意味でもある。日本国が他国に侵略された場合に、国連軍が戦ってくれることを期待したものである。国連軍は各加盟国の軍隊の集合である。日本は自国の防衛に他国を頼りにしているが、他国の防衛には日本は軍を派遣できない。これでは、身勝手な平和主義であって、真の平和主義とは言えない。
 
もしも、自衛戦争の放棄と自衛戦力の不保持が、幣原の発案で憲法に規定されたとしたら、日本の安全保障に対する幣原首相の責任は極めて重い。

参考文献

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マッカーサー. (1964). マッカーサー回想記 ( ). (津島一夫, ) 朝日新聞社.

芦田均. (1986). 芦田均日記. 岩波書店.

伊藤哲夫. (2013). 明治憲法の真実. 至知出版.

吉本貞顕. (2014). 知られざる日本国憲法の正体. ハート出版.

古関彰一. (2017). 日本国憲法の誕生 増補改訂版. 岩波現代文庫.

佐藤和男. (1985). 憲法九条・侵略戦争・東京裁判. 原書房.

西鋭夫. (1998). 國破れてマッカーサー. 中央公論.

西修. (2000). 日本国憲法はこうして生まれた. 中公文庫.

西修. (2012). 日本国憲法の誕生. 河出書房.

青木高夫. (2013). 日本国憲法はどう生まれたか? ディスカヴァー・トゥエンティワン.

袖井林次郎. (1976). マッカーサーの二千日. 中央公論新社.

白洲次郎. (2001). プリンシプルのない日本. メディア総合研究所.

幣原喜重郎. (1987). 外交五十年. 中央公論新社.

鈴木昭典. (2014). 日本国憲法を生んだ密室の九日間. KADOKAWA.